えびはら武司

えびはら武司さんにお金のことをアレコレ聞いてみた!

連載マネーぶっちゃけトーク

まねーぶディレクター最上天晴が、あんな人やこんな人の<お金>にまつわる本音にとことん迫る、直撃インタビュー! 今回登場するのは、『まいっちんぐマチコ先生』で知られるマンガ家・えびはら武司先生。テレビアニメや実写映画、舞台化など多方面に展開しつつファンに愛され続けてきた人気コミックの生みの親だ。えびはら武司先生は、これまでの仕事人としての人生で、どのように<お金>を捉えてきたのか? 驚きの最高月収を含め、最近の「大きな買物」まで、ぶっちゃけてもらいます! 

最初の給料は6、7万円。大卒の初任給より良かった

最上天晴
最上天晴
『まいっちんぐマチコ先生』は、2020年が連載スタートから40周年にあたるとお聞きしました。まさに節目の年ですね。
えびはら武司
えびはら武司
でもなにか特別なイベントがあるというわけでもなくてね(苦笑)。ここ数年、続けてきた『舞台版まいっちんぐマチコ先生』という企画を、40周年は関西でやろうということで準備を進めていたのですが、コロナの影響で9月に延期することになったり。残念ではありますが、あきらめずにやります。大変なのはみんな一緒ですからね。
最上天晴
最上天晴
えびはら先生は、実は藤子不二雄先生のところでアシスタントをされていたそうですね。
えびはら武司
えびはら武司
高校を出てすぐ、最初に仕事をしてお金を得たのが藤子スタジオでした。1973年から約2年間です。マンガ家のアシスタントというのは、おおざっぱなところもあれば、本当にブラックなところもある。でも藤子不二雄先生のところは、きちんとした会社組織でした。基本給いくら、残業代いくら、という感じで働いていましたよ。
最上天晴
最上天晴
そこまできっちりされていたんですか!
えびはら武司
えびはら武司
大好きな先生の事務所に通って、マンガを実践で学びながら、お給料までもらえる。なんていいところだと思ってました。本当に良いことずくめ。まだ千葉の親元から通っていたので、家賃などがかかるわけでもなかったですし。
最上天晴
最上天晴
初任給の額は覚えておられますか。
えびはら武司
えびはら武司
うろ覚えですが6、7万円でしたね。夜6時過ぎると残業扱いで、残業手当が毎月100時間ぶんくらいあってね(苦笑)。昼間だと、スタッフもみんなやる気しないから、夜になってからがんばる、という感じだったと思います。
最上天晴
最上天晴
資料によると、大卒初任給が1973年で6万2300円ほどですね。75年で8万9300円という時代です。最初から大卒超えですね。
えびはら武司
えびはら武司
そうでしたか。残業代や各種の手当で、手取り12〜15万円くらいになっていたから、かなり待遇は良好でした。ですが、当時はあまり仕事の環境が良いという事実は意識してなかったです正直。お金が欲しくて仕事をしていたわけではなかったから。いわれるままのお金をもらってただけ。
最上天晴
最上天晴
採用面接のようなものは、あったのですか。
えびはら武司
えびはら武司
藤子・F・不二雄先生に直接やっていただきました。僕はもともと絵柄がF先生に近かったので、たまに藤子不二雄A先生も手伝いながら、基本はF先生をアシスタントする感じでしたね。ただ、入社にあたってはちょっとややこしい事態になってしまって。
最上天晴
最上天晴
なにかトラブルが?
えびはら武司
えびはら武司
「高校卒業して4月からいらっしゃい」という話になったんですが、手紙でもくるのかと思ってじっと待っててもなんの連絡もない。4月の何日から出社すればいいのかもわからないわけですよ。3月末まで待って、これはいかん、からかわれただけだったかもしれない、と上野にあったデザイン系の専門学校に入学手続きをしました。
最上天晴
最上天晴
で、電話でもしてみたら良かったのでは…。
えびはら武司
えびはら武司
今思えばね(笑)。まだ幼いというか、状況判断ができなかったんでしょうね。専門学校に通い出して2週間くらいしたら「なんで来ないんですか」という電話がきました(苦笑)。
最上天晴
最上天晴
ああ、ですよね(笑)
えびはら武司
えびはら武司
でも学費も払ってますし、いろいろ説明して相談したら、じゃあ両方やってみれば良いんじゃないかと。昼間は学校に通って、終わったら夕方からスタジオで仕事をする。そういう特殊な扱いにしてもらえました。だから当たり前ですけど最初は残業代がつかなかった(笑)。
最上天晴
最上天晴
その学校は無事に卒業されたのですか。
えびはら武司
えびはら武司
結局、2年の学校を1年でやめましたね。最初はデッサンとかキチッとやれたので、決してムダではなかったなと思いますけど。F先生というのは、困ったときにどう切り抜けるか、を考えるのが得意な方で、おかげで、学校と仕事を両立できる方法を編み出してもらえた。
最上天晴
最上天晴
1年で学校を辞めて、仕事に専念したわけですね。
えびはら武司
えびはら武司
はい。2年目からは晴れてフルタイムでお手伝いしながら、マンガのことをたくさん勉強させてもらいました。

アシスタントから会社員へ。副業はもちろん<絵>

最上天晴
最上天晴
1973年ごろというと、もはや伝説的な最初の『ドラえもん』アニメシリーズが、日本テレビ系で放映され、半年ほどの短命で終了してしまった時期ですね。
えびはら武司
えびはら武司
ですから当時はF先生もがっかりされて、『ドラえもん』を終わらせようとしているフシもありました。僕も含めて、スタッフも編集者も、もうちょっと続けてみましょうよと励ましたり、説得したり。
最上天晴
最上天晴
そうなのですね・・
えびはら武司
えびはら武司
先生はいろいろ別の作品に力を入れて、たとえば『みきおとミキオ』とかスタートさせたりしてましたね。でも、未来都市なんか出てくると背景を描くのが大変だし(笑)、結局は日常ものの『ドラえもん』が継続して良かったなと思う。描きやすいマンガって、つまり読みやすいマンガだと僕は考えてますから。
最上天晴
最上天晴
なるほど。『ドラえもん』が今のような巨大コンテンツになった一因には、えびはら先生の尽力もあったんですね。
えびはら武司
えびはら武司
いや、僕はあくまでアシスタント。たまにF先生と雑談しながら仕事してると、「おもしろい、それ買った!」とジョークっぽくアイデア料として100円玉をもらったりとかしてましたけど。
最上天晴
最上天晴
なかなかユニークな職場だったんですね
えびはら武司
えびはら武司
そんな僕のアシスタント時代のエピソードを詳しく知りたいという方は『藤子不二雄アシスタント日記 まいっちんぐマンガ道』という、竹書房から出ているシリーズを読んでみてください。記憶力の限界に挑戦しながら一生懸命に思い出しながら描いて、もう3冊出てます(笑)。
最上天晴
最上天晴
承知しました(笑)。恵まれていた藤子スタジオですが、2年ほどであっさり退職してしまったのですよね?
えびはら武司
えびはら武司
僕はあまりにも世間知らずのまま、藤子スタジオに入ってしまった。だからもうちょっと世の中のことを見たり、体験したりしておかなくては、と考えたんですよ。当然、自立したマンガ家になろうと思ってましたし、自分が直接知っている学校生活を舞台にした学園ものしか描けないのでは、基礎体力として弱すぎる、と思った。
最上天晴
最上天晴
辞めると伝えた際の藤子F不二雄先生はどうでした?
えびはら武司
えびはら武司
実は「やめます」という話は藤子不二雄A先生にまず伝えました(苦笑)。A先生はとても明るく社交的なので、相談事や話もしやすかったんですよ。でも、F先生もなんとなく僕が悩んでいることを察してくれていたみたいですね。最初に辞める話をしてから、8か月くらい経って、無事に円満退社しました。
最上天晴
最上天晴
まだ20歳か21歳くらいということですものね。悩み多き年代です。藤子スタジオを辞めた後はどのような仕事を?
えびはら武司
えびはら武司
広告代理店で、デザインをする部門で仕事をしました。そこで初めて、ちゃんと朝は定時に出社して朝礼をやって、という社会人らしい体験を改めてすることができました。2年くらい在籍したんですかね。
最上天晴
最上天晴
ちなみに給与はいかがでしたか。
えびはら武司
えびはら武司
もちろん、藤子不二雄先生のところの方が断然良かったですよ(苦笑)。でもあまり気にせず仕事をしていました。先生との交流は、電話で相談したりとか、ずっとあって。企画ページのカットや書籍イラストの仕事なんかを回してもらったりもしていました。
最上天晴
最上天晴
会社員として働きつつ、今でいう副業もこなしていたわけですね。
えびはら武司
えびはら武司
うーん、副業というか…。広告代理店の次に映画会社に移ったのですが、そこの給料もやはり大したことはなくて。むしろ藤子先生のところから回してもらう仕事の方が、振込額が多かったこともしょっちゅうありましたよ(笑)。
最上天晴
最上天晴
映画会社ですか。もともと興味があったんですか?
えびはら武司
えびはら武司
あるとき、どうしてもストーリーがうまく作れない、という話を藤子F不二雄先生にしたら「本を1日1冊とかどんどん読め」とアドバイスされたんですよ。ですが、僕はあまり活字が得意ではなくて、本を読むのが苦痛で。すると「じゃあ映画を観たらいい」と。もともと映画は好きでしたし、F先生の言葉にも背中を押されました。
最上天晴
最上天晴
そこではどんな仕事をされていたのですか。
えびはら武司
えびはら武司
日本ヘラルド映画で広告宣伝マンを募集していて。宣伝の仕事をしながら渉外部というところの仕事もして、日本で公開するほぼあらゆる映画が全部タダで観られる、夢のような環境でした。
最上天晴
最上天晴
映画好きにはたまらない仕事ですね!
えびはら武司
えびはら武司
ただ、同じ映画を字幕のない時点から昼も夜もなく何度も観ないといけない仕事でもあったんですけどね(苦笑)。会社を辞めてからも、顔パスでしばらく映画館はフリーで入れてました。デートなんかでもかっこよく振る舞えた(笑)。

ピーク時の月収はなんと500万円!

最上天晴
最上天晴
映画会社も経験し、いよいよマンガ家としての創作活動に集中する時期になるわけですね。
えびはら武司
えびはら武司
映画会社の頃にはさすがに親元を離れて東京でひとり暮らしをしていました。辞めて1年くらい、構想を練るといいつつ、まあフラフラしていたような気もします(苦笑)。いろいろな編集部へのいわゆる持ち込み生活ですね。
最上天晴
最上天晴
デビューがいきなり『マチコ先生』だったのですか?
えびはら武司
えびはら武司
実は、藤子スタジオ時代に、とある同人誌が存在していて、そこに初めて描いたのがすでに『マチコ先生』の原型でした。アシスタントたちが年に何本か自分の作品を描く。それを藤子先生たちがまとめて冊子にしてくれて、出入りする編集者さんとかに配ってたんですよ。
最上天晴
最上天晴
そうだったのですね。マチコ先生はかなり歴史が長いんですね。
えびはら武司
えびはら武司
そういう意味では、40周年どころではなく、45周年くらいかもしれない(笑)。あるとき持ち込んだ編集部の方が、たまたま同人誌を読んでいて。
最上天晴
最上天晴
「キミ、もしやアレ描いてたやつか!」となったと。
えびはら武司
えびはら武司
持ち込んでた原稿も結局『マチコ先生』だったんですけどね(笑)。で、すぐに連載することになって、3月に読み切りを掲載してもらい、6月から連載。あれよあれよと。
最上天晴
最上天晴
またお金の話で恐縮ですが、原稿料は、最初はどのくらいを?
えびはら武司
えびはら武司
連載当初は1ページ5000円、最初は月刊だったので16ページ、月収8万円ほどでしたね(笑)。でも、新人としてはわりと良い方だったはずです。
最上天晴
最上天晴
ええと。統計資料だと連載開始の1980年、大卒初任給は11万4500円ほどになっています。
えびはら武司
えびはら武司
掲載誌が隔週化されて、月に2度、32ページ描くようになった頃には、アニメ化もあって、原稿料もページ8000円にアップしてた。ですから25万6000円が2回で50万円は超えていたはず。
最上天晴
最上天晴
おおっ、かなりの高収入ですね!
えびはら武司
えびはら武司
プラス、単行本の印税。稿料アップを交渉した記憶もありませんし、とにかく忙しかったなあという感じ。人気が出るとページが増えたりカラーもついたりしますから。基本的には、原稿料と単行本の印税が収入源。他にも企画ページ用にイラストを起こすとか。
最上天晴
最上天晴
ご自身でもアシスタントを使うように?
えびはら武司
えびはら武司
編集部から紹介されて、しばらく2人体制でやってたこともあります。藤子スタジオのようにきっちりとはしてませんけど、待遇もまあ良かったはず。けっこうがんばったから今月多めにあげるわ、みたいな感じで、おおざっぱにやってました。
最上天晴
最上天晴
仕事場も広いところを借りていたのですか?
えびはら武司
えびはら武司
いえいえ。当時、僕自身はずっと四畳半に住んでマンガ描いてたました。四畳半で仕事して、三畳で寝る、風呂はご近所の銭湯というK/span>。いまだに、自宅で風呂は年に数回しか入らず、おもにスポーツクラブで入ってる(笑)。
最上天晴
最上天晴
当時の最高月収は、記憶にありますか。
えびはら武司
えびはら武司
月に500万円くらいだったと思います。もちろん印税がピークだった時期。マンガの単行本って、たとえば新しく3巻出ますよ、というタイミングで1巻・2巻も増刷かかるんですよ。6巻、7巻と続くと、なんかすごいことになってくる。でもね、そんな状況は当然、何年も続いたわけじゃありませんから。
最上天晴
最上天晴
月に500万円が仮に1年続くとしたら、年収6000万円ですか。やはりすごい。でも、やがて連載は終わるときが訪れる、と。
えびはら武司
えびはら武司
『まいっちんぐマチコ先生』の場合は、連載途中で掲載誌が休刊になってしまった(苦笑)。だから最終巻の8巻は、実は後半、ほぼ描き下ろしだったんですよ。しかも、なぜかいちばん売れなくて、初版のみ。だから割とレア(笑)。
最上天晴
最上天晴
でも逆に、思う存分、好きなように描けたということもあるのでは?
えびはら武司
えびはら武司
あのね、真面目な話ですけど、好きに描けると質は落ちがちです(苦笑)。今って、第一線からちょっと退いてるようなプロのマンガ家さんの大きな収入源は、コミケとかの同人誌即売会です。マンガ家が自分で描いて刷って自分で売る。年2回、がんばるだけで年間1000万円くらい稼ぐ人だって、たくさんいます。
最上天晴
最上天晴
好きに描いて1000万円ですか・・・スゴイですね
えびはら武司
えびはら武司
編集さんの視点とか関係ないから、自由にみんな描いてます。でもねえ。結果、つまんない作品もいっぱいある、らしいですよ、ここだけの秘密ですけど(笑)。
最上天晴
最上天晴
先生、毒が出てます毒が(苦笑)。
えびはら武司
えびはら武司
いや、僕も実はときどき参加してるからいいの(笑)。昔は、素人に混じるなんて、という感覚もあったんですが、参加してみると、なんだよブースの周りみんなプロばっかじゃんというね(笑)。

まず<お金>が目的か<手段>かを考えること

最上天晴
最上天晴
お話をうかがっていると、あまりお金に頓着しない方のように思えます。えびはら先生のように、好きなことを仕事にして、自由に暮らすことには正直、憧れもあります。
えびはら武司
えびはら武司
でも結局ね、それしかできないし、能がないからやってるだけなんですよ。マンガ家なんて、もともとオタクだし、全然つぶしもきかないでしょ(苦笑)。でも好きだから、これまで40年以上、マンガ家をやってきている>。たまたま若い頃に、ちょっとしたヒット作を生み出せたから、僕はこれまで生活できてきただけ。
最上天晴
最上天晴
先生のようになれない人もいっぱいいる・・・
えびはら武司
えびはら武司
そうです。たとえデビューできても、ヒット作が作れずに田舎に帰ってしまった、という人たちは山ほどいますよ。
最上天晴
最上天晴
ヒット作が作れない人と先生の最大の違いは、ご自分ではどう分析されます?
えびはら武司
えびはら武司
あきらめないこと、かな。それと結局、この仕事でいくら稼ごうとか、あんまり気にしてないから強いのかも。自分のやってることに集中して、やりたいことを追求する。極めているうち、稼げちゃう。がんばったことにお金がついてくるわけです。
最上天晴
最上天晴
なるほど!すごく勉強になります。
えびはら武司
えびはら武司
目的は何か。優先順位を間違ってると、不平不満が蓄積される。今はね、すぐ辞めちゃう人が多い印象があります。あきらめずに続けていれば、やがてチャンスがくる。その機会を逃さないこと。
最上天晴
最上天晴
お金を稼ぐことが第一目標ではいけないと?
えびはら武司
えびはら武司
お金儲けが人生の最大目標なら、もちろんそれでいいんだとは思います。でも僕にとっては、お金って何かの目標を達成するための大事な手段のひとつではあっても、目的そのものには決してならない。これまで目的になったことがないし、たぶん今後も。そういう意味で、あくまでも僕にとっては、がんばったことへの対価でしかないんでしょうね。
最上天晴
最上天晴
一方では、あきらめずに続けてはみたけれど、どうにもならん、という見極めどきというのも、世の中にはあるようにも思いますが…。
えびはら武司
えびはら武司
難しいよね。見極めどきなんて、実際は存在しないのかも。今のマンガ家だって、マンガだけで食えてる人なんてほんの一部ですよ、タレントでもミュージシャンでもそうかもしれないけど。
最上天晴
最上天晴
マンガ家というのは、かなりリスキーな仕事の一つですね。
えびはら武司
えびはら武司
本当に用心深いなら、手堅い仕事した方が当然いいわけで。それこそ資格とか身に付けて。実際、マンガ家やりながら、看護士の資格ある人も知ってます。いざとなったら看護の仕事をする。なんか非常口があるだけで気が楽でしょ。
最上天晴
最上天晴
なるほど。今の時代では特に、そういう考え方も重要ですね。では最後に。えびはら先生にとってお金とはいったいどんな存在なんでしょうか。
えびはら武司
えびはら武司
うーん…若いときから、物欲もあまりないし、金銭感覚というもの自体がこの歳になってもピンとこない。もっとちゃんとしなきゃとは思ってるんですけど、よくわからない(笑)。でもこれだけはいえます。人生は、モノやお金ありきじゃないってこと。あ、そういや先日、すごい大きなテレビを買ったんですよ、85インチとかの。
最上天晴
最上天晴
おお。立派な物欲じゃないですか(笑)。何を観る目的で?
えびはら武司
えびはら武司
妻にも同じこといわれて怒られた(苦笑)。映画はどうせいつも映画館でしか観ないのに、こんな大きな画面で何を観るんだ、って(笑)。まあでも、好きな映画ソフトの観たいシーンだけでも再生して、楽しめたらいいかなあとも思います。映画会社で鍛えられたせいか、繰り返し鑑賞には慣れてますからね。『ボヘミアン・ラプソディ』のラストのライブのところとか、何回観ても素晴らしいからねえ。
サイフの中身、拝見!

忘れて出かけてしまうことがあるので、実は財布は2つ持つようにしているとのこと。「たまに、2つ持ってることも忘れてて、結局3つの財布を持ってることさえあります(笑)。小銭持つのが大嫌いだから、細かいお金はなるべく急いで使っちゃうようにしてる。今日はお金の話だっていうから、100万円くらい入れてこようかと思ってたんだけど、忘れちゃったねえ(笑)」

プロフィール

えびはら武司(えびはら・たけし)1954年京都府生まれ。8歳の頃に家族で千葉県に移る。73年から75年にかけて、マンガ家・藤子不二雄の両氏が当時運営していたフジコスタジオに所属、アシスタントとして活躍。退社後、広告代理店、映画会社などでサラリーマン経験の後、80年に『少年チャレンジ』誌上にて『まいっちんぐマチコ先生』を連載スタート。翌年にアニメ化された同作は、以降実写映画や舞台なども折に触れて製作される息の長い人気コンテンツとなっている。近著に『藤子不二雄アシスタント日記 まいっちんぐマンガ道』(竹書房)シリーズなどがある。


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